思春期は様々な事に「気付く」年頃である。
小学生の頃、友達の林君はお父さんが二人いてうらやましいなーと常々思っていた。一人のお父さんはダンプカーを操り、もう一人のお父さんは大工さんだった。子供の憧れの職業である。
中学一年の夏のある日、突然気付いた。ダンプカーのお父さんは、実はお母さんだったのだと。
駅のホームで「白線の内側までお下がりください。」と言われてもどっちが内側なのかわからなかった。駅と言えば電車がメインだ。そのメインの電車に近い方が内側じゃないのか?ホーム側は外側じゃないのか?いやもしかしたらあの細い白線の、色が塗られてるゾーンが「白線の内側」なのか?純真無垢な少年が判断に困るのも無理はない。
しかし中学二年の秋のある日、このトリックに気付く。実は白線は重要ではなく「下がる」事が重要なのだと。「まもなく電車が来ます。お下がりください。」これでも十分なのだと。「まもなく電車が来ます。白線の外側へお下がりください。」これでも通じるんじゃないかと。
父親のセリフには説得力がある。父親の言うことは全て何の疑問も持たずに信じ込む。私の父は「カレーは、かき回せばかき回すほどうまくなる」と、カレーを食べるたびに言っていた。純真無垢な少年は全く何の疑問も持たずに、カレーはかき回すとうまくなるのだ、たくさんかき回したからこんなにうまいのだ、と自然の摂理であるかのように定義として思考に定着した。
中学二年の秋、なぜ父親の言うことには説得力があるのか、教祖のようなパワーで常識として刷り込まれるのか、という疑問を抱き、この証明に挑戦する。
「子供の父親に対する服従行動の現れである」、「知識の未成熟期における判断能力の欠如である」、あるいは「和平を望む本能的な行為である」と様々な視点から考察を続けた。
が、中学三年の冬、気付く。
父親が言うことはほとんどが「どうでもいいこと」なのだと。どうでもいいから信用しとく。仮にデタラメだったとしても、どうでもいいのだから別に問題はない。
思い起こせば「怪獣とケンカして勝ったことがある」とか「水前寺清子はジャングルで生まれた」とか「ゲリラはゴリラの仲間だ」とか、激しい洗脳を受け、常識の一部として形成されていたが、人間生活において必要な情報ではなかったのだ。
受験だ、恋愛だ、ロックバンドだ、と熱を注ぐものが身の回りに大量に存在するエネルギッシュな時期が「思春期」だ。カレーをよくかき回したものとかき回してないものを用意して味を比較することに情熱を燃やすべきではない。ましてや意味も目的もなく鯉の形をしたのぼりを揚げる家庭に疑問を持つべきではない。
2004.05.05 / n_a_r_y
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